昭和20年代
絶縁試験器との出会いと活路
父の郷里で
山ノ内青治は昭和21年2月に父の郷里である日置郡吉利村(現・日置市日吉町)にて「明興電機商会」を個人創業した。当時、物品統制が敷かれ休業中であった伊集院町中央にある、とある呉服店の一部を借りての起業であった。
年末の電気工事の仕事が仕上がらず、お客様より年が明けますと言われても仕事を続け屋根裏で除夜の鐘を聞いたことも当時あったそうだ
会社を救った奇跡的な出会い
創業当初はモーター・変圧器の修理や自家用ポンプの取り付け、また、農機具の販売を手掛けていたが、昭和21年10月には15万円の資本金で「有限会社明興電機商会」へと法人化させている。
その後の会社の命運を左右し、事業の方向性を絞る役割を果たしたのが、日立製作所製の「500ボルト絶縁抵抗計」だ。鹿児島市内をくまなく歩き、奇跡的に手に入れたもので、明興テクノスの始まりを語る最も古い機器工具である。
この強大な味方は、製材所やでんぷん工場の動力モーターの絶縁試験で活躍。感謝の声を得ただけでなく、工場内にある焼損したモーターの巻替修理をも受注する呼び水となった。また、電力状況が芳しくなかった当時、変圧器の焼損も相次いでいた。九州配電㈱(後の九州電力㈱)の変圧器の修理も精力的にこなした。
日本復興のために民力が全国各地でぜん動を始めた昭和20年代。青治氏の人脈と修得した電気・通信の知識と技術は、戦後のインフラ復興の要ともいえる電力の安定供給や後の水道施設の分野において確実に芽を出し、それぞれの時代が求めてやまない独自性を発揮していくことになる。
昭和30年代
絶賛された自動制御配電盤
簡易水道組合の悩み
復興に向かった日本経済は、昭和30年代初頭から世界に類のない高度経済成長期に入っていく。カラーテレビの本放送開始や東京オリンピックの開催、東海道新幹線開業に至るまで、まさにモノづくり大国日本が再び息を吹き返した時代といっても過言ではない。
㈲明興電機商会もまた、昭和31年には創立10周年の節目を迎え、従来の巻線部門に加え配電部門を作り農家の電灯配線も請け負うようになっていた。客先の農家の方には工事が済めば便利になったと喜ばれ、社員は皆深いやりがいを感じていた。
創立10周年の翌年、昭和32年4月には水道施設における自動制御・計装工事に本格参入することになる。
当時の農村域の簡易水道は、手動による放水と断水を行ういわばアナログ管理であった。管理者のミスで断水する事態も頻発し、暮らしに支障を来していた。
また、水源である貯水池では水量を目測する装置にフロートスイッチが使われていたが、これもまた動作が不安定なために度々容量の限界を超えて水が溢れ出すことがあった。簡易水道組合もこれにはほとほと頭を悩ませていた。
その相談が当社に舞い込んだ。現況調査などを経て、当社社員は早速この課題に向き合い、“ 自動制御配電盤”をついに生み出した。立石電機㈱(現・オムロン㈱)が開発した液面スイッチで、水中に沈めた電極棒に水量状態を検知させ、これに電磁開閉器と焼損保護のための継電器を組み合わせてポンプを動かす構造だ。事実上の自社製品第一号である。
自社製品が認められ、得た翼
同製品は、町域の各水源地に納められ、難点を見事に克服した性能が絶賛を浴びる。それはたちどころに鹿児島県内全域の水道組合に知れ渡り、昭和32年以降、工事依頼が急増した。
このため、現場までの機動性を高める目的で、昭和35年4月鹿児島市加治屋町に鹿児島営業所を開設。その2年後の昭和37年、「有限会社明興電設」に商号変更し、加治屋町に本社を移転するという流れをたどっている。
前述の貯水池自動化の功労が認められ、昭和38年に九州電力㈱鹿児島支店の発変電工事指定店に登録されるという企業伸長の大きな翼を手に入れることとなった。これを受けて電力事業部を設置し、受注から施工までの対応を一元化させた。
昭和40年代
躍進の時代、自信の裏打ち
組織の確立と成長
昭和40年代に入ってからの大きな動きに、計測機器などを自動制御で運転できるように配線・接続する計装工事の受注が顕著に増えだしたことが挙げられる。
昭和45年には郡元3丁目に新社屋を建設し、加治屋町から本社を移転する。
明興電設がみるみる頭角を現した最大の要因は、ニーズに合致した技術力、応用力と顧客第一主義の徹底したサポート態勢であった。
翌、昭和46年には現在まで脈々と受け継がれる“ 社訓”を制定。創業者の発案により、当時の社員一人一人が真剣に考え、会社の志を据えた。
官民双方の受注ボリュームも順調に増えつづける最中の昭和47年10月には、「株式会社明興電設」に組織変更し、従業員数も10年前の3倍にあたる33名を数えた。
大規模工事で得た自信
工事面を見ると、昭和48年に受注した河頭浄水場の改良・増設工事は特に規模が大きかった。鹿児島市で初となる河川表流水(甲突川)を取水する浄水場として、昭和40年に建設され通水を開始。その後の工事を受注したわけだが、今日でも取水と導水を含めて最も重要な浄水施設に位置づけられる事業であった。
昭和50年代
市場拡大
九州一円を見据えて
企業活動を永続的に進め、経営基盤をより盤石なものにするためには、鹿児島県内を固めると同時に、さらに外部へと拡大させる戦略が不可欠である。明興電設もそのセオリーを果敢に実行し、九州圏域の中心的市場である福岡県で、昭和53年に福岡支店を開設。その飛躍に拍車が掛かるように、昭和54年には電気工事業において特定建設業の建設大臣許可を、その他管工事・機械器具設置工事・水道施設工事・消防施設工事において一般建設業の建設大臣許可を取得。他県で大規模な元請け工事を受注するにあたり、その下地が整ったといえる。
以下時系列で追うと、昭和54年に鹿屋営業所を、昭和57年に熊本営業所を開設。昭和58年には川内営業所を開設するなど、内外へ積極的に舵を切った。
昭和60年代 ~ 平成9年
独自開発路線と自社工場の建設
データロガーを作ろう
バブル経済の明と暗、昭和天皇の崩御による元号の変移など激しくうねったこの時代。 明興電設もまた、新たな自社製品の開発や増資、工場建設に伴う配電盤の一貫製造ラインを構築するなど、設計・施工に偏重しない独自性を持ったメーカーとしての色を濃くしていく。
その代表的な製品が、昭和62年に松元町へ最初に納入されたデータロガーである。他社製品の不具合の多さに苦慮しており、当時の明興の技術力を総動員して作られた自社製データロガーは、ここからさらに改
良を重ね、主力製品の一つとなった。
社員数が100名を超えた平成元年。その7月には、宮崎営業所が開設された。
一つ目の配電盤工場と創立50周年
平成2年8月には、鹿児島市七ツ島の6,000㎡の敷地に3, 415㎡の配電盤工場(明興テクノフロント)を完成させた。
当初約30人体制で操業。設計・製缶・塗装・配線組立の検査ラインを集約するこの一貫製造体制によって、部署間のオペレーション密度はもとより、品質管理面、量産計画の緻密化にもつながった。製缶塗装や高圧盤製作の作業は経験がなくかなり苦労したものの、自社で全て行うというハードルを乗り越えてきた。
特に平成2年12月に㈱明電舎から受注した高圧盤は大きな自信となり、デスク盤や監視盤など特殊な自社盤製作の受注拡大へと結びついていった。
そんな努力と成果が評価され、後に国土交通省、日本下水道事業団、東京都や大阪市の製作業者としての公的認定を受けることとなる。
平成6年には昭和48年に建てた社屋の裏に4階建ての新社屋を建設。平成8年2月の創立50周年に向けて一つの区切りを付けるため、平成7年に㈱明興電設から社名を現在の「株式会社明興テクノス」に変更した。
大規模工事とTRUST運用開始
工事面においては、平成8年に「鹿児島県庁舎(行政庁舎)電気設備工事」を納めた。明興テクノスの歴史において初の完工高6億円を超える大きな工事となった。
同年4月には宮崎営業所が支店に昇格。平成9年には沖縄営業所を開設。さらには、各自治体の水道施設に配置された中央監視制御装置と、明興テクノス内監視センターとを情報ネットワークで接続し、施設の運用状況を24時間365日体制で監視するシステム“ T R U S T ”の運用を開始した。ハードとソフトの改良を重ねながら今日では24市町村が導入し、活躍している。
時に勉強会や模擬試験を行うなど、何度も試行錯誤を重ねながら“ T R U S T ”の完成度は高まっていくのだった。
平成10年代
広まる「明興テクノスの世界」
視線の先は、全国へ。新組織と新工場
県内においては、平成12年に完成した清藤工業団地への進出を決め、伊集院町と立地協定を結んだ。創業者の出身地である日置市へ地域貢献をしたいという強い思いから実現したものであった。時代に合わせ環境へも配慮した工場の建設計画が進んだ。
平成10年代で特筆すべきは関東、関西といった大都市市場に照準を合わせていったことだ。生産能力の拡大の確実性を根拠に、さらに営業の足と仕事の機会を広めようと、平成14年9月に東京営業所を開設。
一方、関西方面では平成18年2月に大阪営業所を開く。
「創る」体制を整える
立地協定から5年。創立60周年にあたる平成18年2月に、日置工場は完成した。敷地面積は9, 399㎡、建築面積は七ツ島工場とほぼ同格の3, 122㎡で、建設費は6. 8億円。環境を考慮した設備を整え、ロガーや変電盤、監視盤、キュービクルなど多種多様な製品を一貫生産。国内はもとより東南アジア諸国まで年間1, 000面以上の配電盤を送り出している。
さらに同年、新システムをN T Tドコモ九州と共同開発。それが携帯電話によって水道設備を監視制御するシステム“ A c c e s s 60”である。これまで課題となっていた異常発生時のタイムラグを解消するこの新システムは、管理者の要望を忠実に具現化したものであり、地元紙、業界紙に大々的に取り上げられ高い関心が寄せられた。
社会の要請に適応
企業の社会的責任や環境保護への取り組みが一層叫ばれる時代になり、平成11年に品質と顧客満足度の向上を指針とする国際品質規格I S O 9001を、平成15年に環境国際規格のI S O 14001を認証取得した。
平成20年代
技術力と商品力で全国に挑む
高いプロダクト水準
公的な表彰も相次いだ。平成21年には熊本防衛支局が発注した「下甑島(18)局舎新設等電気工事」に対し、第一回熊本防衛支局支局長賞が授与された。管内で2社のみとなる第一号の表彰で、工事成績評定点84点を獲得。高い技術力が認められた。続く平成22年には、電気工事業の発展に尽力する現社長の功績に対し、国土交通大臣表彰が授与された。
全国への挑戦
平成21年には初の試みとなる計測器展示会を自社開催。水道実務技術者を対象として、上下水道・畑地かんがい用計測器を取り扱うメーカー15社にご協力いただき、最新の製品と情報を提供した。この展示会は好評を博し、平成23年に24社の協力により第2回、平成26年には23社の協力により第3回の展示会が開催され、現在も続いている。
また、平成23年には自社開発した中央監視制御装置に対し、公共建築協会より国交省監修の公共建築工事標準仕様書に適合する設備として評価書が交付された。むろん鹿児島県では初めての偉業であり、大手メーカーの製品と遜色ない技術水準であることの証明となった。
平成25年には東京営業所を支店に昇格させ、さらに全国規模の展示会である日本電設協会主催のJ E C A F A I Rにも第60回から毎年出展し、全国への大々的なPRも開始した。
平成27年にはシステム開発部が、組織が保有する情報に関わるリスクを適切に管理し、組織の価値向上をもたらす情報セキュリティマネジメントシステムの国際規格ISO27001の認証取得に向け活動を開始。社内のセキュリティ環境をあらためて見直し、約1年の調整を経て取得に至った。
足元を固め、お客様のために
県内の営業網でも活発な動きがあり、平成22年に姶良営業所、平成24年に志布志営業所を相次いで開設した。これにより、離島を除いては鹿児島県下一円を網羅したことになり、ますますの機動力と飛翔力がもたらされた。
工事面では、平成27年5月に移転オープンした「鹿児島市立病院新築電気設備工事」を、平成8年の県庁舎以来となる完工高6億円を超える工事として納めた。
1946年(昭和21年) 2月 | 明興電機商会創業 |
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1946年(昭和21年)10月 | 有限会社明興電機商会設立(資本金15万円) |
1962年(昭和37年) 8月 | 有限会社明興電設に名称変更(資本金50万円) |
1970年(昭和45年)10月 | 鹿児島市郡元に本社移転 |
1972年(昭和47年)10月 | 株式会社明興電設に組織変更 |
1973年(昭和48年)10月 | 鹿児島市小松原に本社移転 |
1990年(平成 2年) 8月 | 七ツ島工場完成(一期工事) |
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1993年(平成 5年) 9月 | 七ツ島工場製缶棟完成(二期工事) |
1994年(平成 6年) 7月 | 本社新社屋完成 |
1995年(平成 7年) 7月 | 株式会社明興テクノスに名称変更 |
1995年(平成 7年) 9月 | 増資(資本金5000万円) |
1997年(平成 9年)10月 | 七ツ島工場製缶棟増設完成(三期工事) |
1997年(平成 9年)10月 | 監視センター「TRUST」開設 |
1999年(平成11年) 6月 | ISO9001取得 |
2000年(平成12年)11月 | 日置工場立地協定契約 |
2003年(平成15年)12月 | ISO14001取得 |
2006年(平成18年) 1月 | 日置工場完成 |
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2012年(平成24年) 3月 | 宮崎支店移転 |
2012年(平成24年)9月 | 志布志営業所開設 |
2013年(平成25年) 5月 | 福岡支店移転 |
2013年(平成25年) 6月 | 東京営業所 東京支店に変更 |
2015年(平成27年)3月 | 沖縄営業所移転 |
2015年(平成27年)11月 | 大阪営業所移転 |
2015年(平成27年)12月 | ISO27001取得 |
2016年(平成28年)3月 | 大阪営業所 大阪支店に変更 |
2016年(平成28年)8月 | 東京支店移転 |
2018年(平成30年)4月 | 新社屋竣工 |